バラード平成 〈サクソフォン〉
「困ったなぁ ・ ・ ・」
たった今までステージで演奏していた男が
カウンターの隅の椅子に腰掛けながら言った。
ここは主にjazzを聴かせる東京王子に在るライブハウスだ。
彼はこの店のバーテンダーであり演奏もこなす。
捲り上げたYシャツがライトでブルーに輝いている。
両手であごを包み込み、視線を落としている。
「どうかしたんですか?」
彼とはこの店で何度か会っていたが、注文するとき以外で
話を交わすのは初めてだった。
「ピンチなんですよ・・・明日までに何とか用意しないと」
な~んだぁ!!金のことかぁ~ッ!!
お金のことを持ち出されても、貸すほどの余裕もなければ
そんな日常の些事を忘れるために此処に来ているのだからと
アルコールとjazzに心を遊ばせていた私の心は急に醒めてしまった。
心の中で言った。
「あんた、それでもプロかよ!」
でも、次の一言が私を夢見る少年に変えた。
「誰か、ぼくのあれ買ってくれないかなぁ
・明日までにどうしてもお金を作らないと大変 ・ ・ ・」
あれとは、先程まで彼が手にしていたサクソフォンのことだった。
金色の体に彫金の施された品物だったが、リスナーのぼくには
品定めする知識は一切ない。
「大事な商売道具を ・ ・ ・」
酔いの力も手伝って心がいろんな方向へ飛び跳ねる。
「リクエストいいですか?」と訊いた。
テイクファイブ
あの時私は演奏している彼を観て、
いつの日にか私もあのステージの上で楽しめたならと考えたのだった。
今の自分ではない、もう一人の自分が額に汗を滲ませ
眉間に皺を寄せてあの楽器を胸にしているのだ。
そして彼のことを、映画「海の上のピアニスト」に出てくる
トランペッターとダブらせた。
その彼もまた、船から降りた霧の街で、お金のために大切な
トランペットを売った。
映画の最後では質屋の主人が「必要だろ」と言って
その品を返すのだが ・ ・ ・
私はその後間もなく大阪へ転居して、その彼とは一度も会ってはいない。
そうして、あの時のサクソフォンは、未だ、私の手元にある。
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